個性を持った若者に花束を|TCPライティングコース受講者課題
2022.02.04 UP
高校3年までの18年間、山あり谷あり、色んな経験をしてきたなと振り返ってみた。全身麻酔の手術を乗り越えた。生徒会を3年間やった。演劇部の公演前日、部員みんなで徹夜した。精神的な疲労から過呼吸に悩んだ。でも、結局、軌跡を振り返って思うことは、
「私」に生まれて、生きることができて、「私」は幸せだ
ということ。何故なら、個性、つまり私らしさに自信をもっているから。
悩み多き高校生
私の個性は何かというと以下の通り。
- 頭の回転が速い
- 行動力がある
- 女子が苦手で男友達が多い
- 政治、経済、地元大好き
個性があって良かったと思うこともある。推薦書、面接練習の話題に困らない。決断が早く、検定合格やイベント開催など大きな目標を達成しやすい。しかし、結局悩むことが圧倒的に多い。疎外感を感じることが多いのだ。例えば、以下の時。
- 男女で分けられた体育の時間
- テストの点数が良かった場合
前者は、女子の輪に入ることが苦手だから。クラスに一人はいるんじゃないだろうか。孤立して運動だけ真面目にする系女子。あれだ。後者は、嬉しいだけだろうと思われるかもしれない。だが、できるなりに悩んでいるのだ。その時の私を自己分析にかける。
1.男女で分けられた体育の時間
私は、上記のような体育の時間が憂鬱でしかなかった。男女別に分けると暗黙の了解のようにいつもの仲良しグループが各々集まり授業が進む。放課後のような雰囲気が授業中にもかかわらず漂う。もはや、スポーツを真剣に取り組むというような授業らしい雰囲気ではない。スポーツをする機会が体育しかない文化部の私はムッとなる。いい汗をかいて、痩せたいとか思ってたのに。早々に体育の時間をつかってのダイエットを諦め、場の雰囲気に染まることに尽力する。ここで、問題に気づく。私には、同世代女子と話すための共通の話題が少ない。授業は65分。授業の準備、後片付けの時間を含めると80分近くになる。到底、話し続けることはできない。話そうと努力してもやっぱり疲れる。孤立する。また頑張ってみるがやっぱり……。このように悪循環に陥る。好きで孤立している人間はいない。少なからず、体を動かすことに真剣になると孤立がどうこうは関係なくなり楽しいばっかりなのだが。
先生によっては男女を混ぜて授業を進めてくれた。男女でのペアワークまたは、チームワークが一定時間、変化なく続くと恥ずかしさが勝ってくる問題がある。この対策として、恥ずかしさが勝つ前に相手、チームを何回も変えながら授業が進行していく。多くの人のプレイを観察できるので、すぐに上手な人のプレイをまねることができる。また、飽きがこない。話したことがない同級生とも自然と話す機会ができるため嬉しい。いいこと尽くしのように感じた。やはり、私は体育の時間が男女混合であってほしいと願う。
2 .テストの点数が良かった場合
私のテストはいつもいい結果というわけではない。毎日忙しくしないと死んでしまう病の私は、毎日をスケジュールだらけにしてしまう。部活、委員会、読書、勉学、地域振興、学校行事など。最低でも三つの物事を同時進行させる。忙しい時期が、テストと重なることも多い。そう、勉強を捨てることもよくあったのだ。赤点ギリギリの点数に慣れた最底辺の人間だった。しかし、高校生活も終わりが近づいてきた。優先順位一位は自ずと勉強になる。元々、勉強好きな私が純粋に好きなだけ勉強できる環境を整えた。勉強を楽しむ習慣が身につくと効果もすぐに現れる。真面目に取り組んだテストはお察しの通りちょっと張り切りすぎた点数になってしまった。順位表が張り出されるので周りの目がどうしたって気になる。「うざい、調子ノリやがって。」「なんであいつが」そんなことを思ってる人間がいるわけはないと分かっていても思ってしまう。
「私」は天変地異か?
個性について改めて考えたい。ここでは個性を持った人間存在を「私」という一人称で定義する。個性を持っていることは人類共通の真理ではないのか。
始めに挙げたように、単体としての一つの個性は何気ないありふれたものだ。だが、それぞれに様々なパターンの個性がくっついている。そして、そのパターンはみんな異なっている。だから、「私」はこの世に一人しか存在しない特別な一人になるのだ。この現象は誰にでも当てはまることだろう。つまり、「私」は怪奇現象ではない。誰でも特別な人間になれる、さらに言うと、誰しもが個性を確かに持っているのだ。
物と名前はどっちが先か。人間という確かな普遍性の塊に名前がついたのか。名前は単なるラベリングに過ぎず、それぞれは異なっているのか。この実在論と唯名論の論争を思い描いてほしい。
また個性は昨今、社会に歓迎される要素だ。しかしながら、個性は一定の境界線を越えると異端と見なされ周りの目はナイフになる。個性の集合体である「私」は時として、社会の拒絶対象になってしまうらしい。この加減が非常に難しい。
例えば、学校制度は、多様性の大切さを尊び様々な学びの形を推奨している。入試のためだけではない日常のなかに、人格形成にとって大切な豊かな学びがあったと私も感じる。しかし、まだまだ不備が多い。私は部活の大会とテストが重なり体調をいつも崩していたし、点数も低かった。試験日程を一週間ずらすなど、配慮があれば、もっと文武両道がしやすい環境になるはずだ。実際に勉学だけでなく他の物事にも、同時に熱心になる生徒への想定が追いついていない。
「鈴と小鳥と私、みんな違ってみんないい」小さいころ、毎日のように歌った。見た目、人種、言語、性格、性別、能力、個性など、全てにおいて、多様性が認められる社会。それが理想らしい。しかし現実は「郷に入っては郷に従え」だ。
あぁ「私」ってめんどくさい。全ての個性の値が平均値の私だったら良かったのに。普通の人間になりたい。そう思う一方で、やっぱり特別な人間として、他者とは違った自分でいたい。かと言って、違ったら違ったで理解されない自分の個性を抱えることになる。あぁ「私」ってめんどくさい。こんな「私」は傲慢なのか。
個性と上手く向き合うために
個性にも社交辞令のように定型文があると思う。面接で「あなたの長所は」と質問されたとする。皆が口を揃えていう。社交性がある。真面目だ。リーダーシップがある。きっと面接官も飽き飽きするほどに同じ回答だろう。
人は自分の個性に自信があったとしても、他者と同調したくなる。また社会も例に挙げたような試験に、合否の明確化を求められる。ここに個性が定型化されつつある原因があるように感じる。個性の定型化は個人にも社会にも合理的でありがたいのだ。しかし、社会が形成した個性の定型文、それは偏見にも繋がるだろう。偏見は悪い、個性の多様性は良いとする一方で、偏見はなくならない。ある意味では、偏見に自分を透過させる方が楽である場面さえ多い。何故なら、型に当てはまる人間は言うまでもなく社会に支持されるからだ。しかし、本当にそれでいいのか。
人に定型文は本来ないはずだ。現に、世間一般に成功者と呼ばれる人達は、私達が想像したこともないような経験をしている。AIに規則性のある物事、全てを担ってもらう現代では、並一通りの人は求められないだろう。だからこそ、「みんな違ってみんないい」なのだ。どうか個性の塊である若者に光が当たりますように。個性を持った若者に花束を。
(執筆:12月期TCPライティングコース|高3・メイメイさん)
内藤千裕
2021.12.26 UP
久保佳那
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石ケ谷優子
2021.12.10 UP
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「気になることをやってみる」の重要性。挑戦したからこそ見えるものとは?|TCPライティングコース受講者課題
2021.12.04 UP
「周りになじむまで様子をみようと思っていたら時間がすぎていた」
「毎回メンバーが固定されてるから珍しく自分がやってみるなんて」
「過去にやってみて失敗した経験があるから怖い」
反抗期と思春期の真っただ中にいる私たち中高生は、こんな風に周りの空気を読み合ったり目立たないように過ごしてしまうことも少なくないと思います。
ただこの周りばかりを尊重するのは、成長のチャンスを自ら手放す行動だと私は思うんです。
やってみるはとってもいいこと
「1mmでもやりたいと思ったらやってみよう」
私がいろんなことに挑戦するたびことに毎回背中を押してくれるこの言葉。これは私が小学5年生の時の担任の先生からもらった言葉です。
かつての私は人見知りで、気持ちを主張したり自分の判断で行動したりする積極性が欠けている人でした。しかしこの言葉に押され、1mm心を動かされている自分に向き合い、小学校の児童会委員に立候補したのです。結果は落選。しかしその後に行われた広報委員の委員長に立候補し、当選しました。
中学生になってからも、いろんなことに挑戦し続けました。1、2年生の頃は、学年や学級の代表を2回ずつ担当。また3年生になってからは文化部の部長となり、合唱コンクールなど学校の大きなイベントの運営にも携わりました。
なぜ、中学生になってもこの言葉が生きているかというと、先生の言葉を実践するだけで、新しい自分と出会えると知ったからです。
自ら望んでやってみたことだからこそ得られること
私がした挑戦して最近一番印象に残っているのは高校の文化祭実行委員でした。
文化祭実行委員として色々やってきたなかの1つに、ラジオ企画のシナリオを書くというものがありました。シナリオはMCのセリフをとても細かく考えながら書かなければなりません。しかもラジオは2回。合計約9000文字という経験したことのないボリュームの文章を書くこととなり、とても大変だったのを覚えています。
ただ大変な思いをしながらもシナリオを書き上げた経験は、その後の私の生活にいきています。私はもともと、文章を書くのが苦手なタイプです。そんな私にとっての学校生活における難関が、レポート課題。なかでも進路についての授業で出されるテーマごとに4回繰り返す200〜1000文字のレポートに、私はいつも悩まされていました。私は最低ラインである200文字をクリアするのが難しいくらい、書くことへの苦手意識を持っていたのです。しかしラジオのシナリオ約9000文字を書いたことにより、長文を書くことへの抵抗がなくなりました。
他にもMinecraftでオリジナルの街を作ろうという企画をし、運営としてなにかトラブルが起きていないか、一人になっている人はいないかなど、ずっと集中する機会がありました。くわえて文化祭期間中にも集中を必要とする場面がたくさんあったこともあり、いつのまにか「1日中集中する」という力が身についていたのです。以前の私は、勉強のときの集中が1時間で精一杯でした。しかし文化祭が終わってからは、勉強をしていると気づけばもう夜がきていたり、勉強アプリのスクリーンタイムの時間が1日で13時間になっていたりと、自分の集中力アップを実感できたのです。1年かけてやる学校のレポートを1ヶ月半で終わらせられたときは、自分でも驚きました。
長文を書くことへの抵抗がなくなる、1日中集中できる力を身につける。これらを一瞬で、短期間で身につけるのは、簡単ではありません。しかし自分が「やってみたい」と思ったことに挑戦するなかでなら、簡単ではないけれどもいつの間にか身につけることは可能だと思います。
1mm心が動いたのに、本当にやらなくていいの?
挑戦には、勇気が必要です。なかには失敗して後悔をしたことを思い出して、一歩踏み出すのが怖いという人がいると思います。
私も小学生の頃に児童会委員に立候補して落選してしまったときは、さすがにへこみました。しかし当選した人のサポートにまわったり、その気力を別の新しいことに使ったりして、「やってみた」という気持ちが自信や次の挑戦につながることを身をもって知りました。
だからこそ「1mmでもやりたいと思ったらやってみよう」なんです。少し気になっている証拠である「1mmでも心が動いた」という自分の素直な思いに蓋をしないこと。これが自分のさらなる成長につながると私は思っています。
もちろん私も、なんでもかんでも挑戦してきたわけではありません。「私にはできない」と思ってそのままスルーした時もありました。しかしそういう時に限って、そこに挑戦していた人が成長している姿を見ては、「なんでやらなかったのだろう」と後悔を味わってきたのです。
例えば、授業で発表をする。グループの話し合いで一番最初に意見を言ってみる。英語の授業でいつもより大きな声で読んでみるなどなんでもいいと思います。自分にとって身近な挑戦のの1つ1つが、さらに成長した自分と出会わせてくれるはずです。
また、今の私たちは中高生です。大人になると、社会における責任が今以上にかかり、失敗しにくい状況になっていきます。失敗を許される時期とも言える中高生の今が、たくさん挑戦して経験を積むチャンスだと思うのです。一緒に勇気を出して、成長していきましょー!
(執筆:11月期TCPライティングコース|高2・かなぽんさん)
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かなぽんさんが受講したライティングコースは、毎月開催予定!
文章を書くのが苦手な人も、もっと好きになりたい人も。
文章を書くコツはもちろん、書き終えた時の達成感、爽快感を味わいませんか?
▼コースについて詳しく知りたい人はこちら▼
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▼コース受講生の卒業課題はこちら▼
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あくやん
2021.12.04 UP
渡辺羅須
2021.11.22 UP
TSUTAYA減少の危機?!なら今こそ魅力を伝えなければ!|TCPライティングコース受講者課題
2021.11.15 UP
TSUTAYAの店舗が減っていることをご存知でしょうか?公式サイトには何店舗減っているという具体的な数字はなかったのですが、WEBメディアでTSUTAYAの店舗削減のニュースを見かけたり、Twitterでトレンドになっているのをみたりして、私は衝撃を受けました。
というのも私は、親の影響で小さい頃からTSUTAYAによく通っていたからです。しかし周りを見渡してみると、私の友達だけでもやAmazon Prime Video、Netflixなどの配信サービスでアニメや映画を楽しんでいる人のほうが多いという事実を知ってしまったのです。
「配信サービスの普及が、TSUTAYAの閉店につながっているのかもしれない」
日経新聞の「相次ぐTSUTAYA閉店 ネット配信に押され」(2017年10月17日)という記事でも触れられていましたが、消費者の動画の観方が配信型へと変わってきている今、店舗の整理が行われるのは仕方のない流れなのかもしれません。
しかしTSUTAYAでアニメや映画を借りて観ることは、配信だけでは味わえない楽しみもあると思うのです。今回は改めて「根っからのTSUTAYA派」な私が思う「TSUTAYAの魅力」をお伝えします!
①「発掘良品」に注目!新たな作品との出会い
TSUTAYAのレンタルDVDのなかには「発掘良品」というシールが貼られているものがあります。たとえば『アダムス・ファミリィー』など見ごたえのある作品を見つけることができます。
このシールは、自分が普段観ないジャンルとの出会いを生んでくれます。小さい頃私はファンタジー系統の作品を多く見ていたのですがある時、このシールのついた古い作品と出会いました。これをきっかけに他におもしろい作品があることに気づき今では恋愛やミステリーも見るようになりました。なので、自分が知らなかった「見ごたえのある作品」との出会いをくれる魔法のシールだと思っています。
②映像通の口コミが心強い!店員さんの手作り広告
TSUTAYAの店内には、ところどころに手描きのポップと呼ばれる広告のようなものが貼ってあります。
これは店員さんが実際に観て作っているもの。映像通の店員さんのコメントがあるため、信用して借りることができます。
「あらすじを見ればいいんじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。しかし何か作品を見るときに、あらすじだけで判断する人は案外少ないのではないでしょうか。『カメラを止めるな!』や「鬼滅の刃」が社会現象になったのには、人の言葉、「口コミ」が大きく影響していると考えられています。誰かが観て「面白い」と評価されているもののほうが、手に取りやすいという人もいるのではないでしょうか。
TSUTAYAの場合、映像通の口コミとその作品が一緒にある状態だと言えるでしょう。
③当選確率高め?割引特典付レシート
動画配信サービスにも初月無料、継続利用者へのポイント付与などの特典があると思います。ただTSUTAYAにもレンタルをする際にうれしい特典があります。
買い物をした後につくレシート。TSUTAYAでもレンタルするたびにレシートを受け取るのですが、ここに〇〇円引きや、漫画◯冊で1,000円などの特典がついてくるのです。
私はTSUTAYAへ月に2、3回行くのですが、そのうち1回は当たるため、「お得!」って思います。限られたお小遣いでレンタルしなければならないため、こういうこまめな割引が案外うれしいんです。
このようにさまざまな魅力があるTSUTAYA。そこには店員さんの細やかな工夫や気配りがあるとも感じています。だから飽きずに通うことができるのだと思います!
TSUTAYAが私にくれた3つのこと
今はコロナということもあり、外出せずに映像作品を観るスタイルが主流となりつつあるのかもしれません。しかしTSUTAYAへ足を運ぶことは、選ぶ楽しさを味わわせてくれると思うのです。
また色んな作品に触れることは、自分の世界観を広げることにもつながります。実際に私は
『タイタニック』や『ゴースト/ニューヨークの幻』をみて恋愛のあり方の奥深さを学び、『華麗なるギャツビー』や『イエスマン “YES”は人生のパスワード』をみて幸せとはなにか、人生のあり方について考えさせられるようになりました。
もちろんTSUTAYAでレンタルするのには、お金がかかります。有料ということに抵抗を感じるかもしれませんが、お金がかかるからこそ1つ1つを丁寧に選び、深く見ることができるのです。
TSUTAYAでは、アニメや映画といった映像作品だけでなく漫画やCDなどのいろんなエンタメがレンタルできます。その種類は過去の名作からトレンド作品までとにかく豊富です。その空間はまるで、図書館のよう。自分の目でじっくりとみて、気になったものを手にとる瞬間には、図書館で唯一の本を見つけた時のような特別感があると私は思っています。そのなかで自分のありたい形や考え方が広がる作品にきっと出会えるでしょう。
(執筆:10月期TCPライティングコース|高1・めぐさん)